賀名生梅林
奈良県三大梅林の一つ、賀名生(あのう)梅林。
西吉野に位置するこの梅林は、
奈良市東部に位置する「月ヶ瀬梅渓」、下市町の「広橋梅林」と並ぶ、
奈良県内の梅の名所の一つとして知られ、
およそ2万本ある淡い紅色と白色の梅の花が丘陵一帯を華やかに包みます。
口の千本、西の千本、奥の千本があり、
開花時期も少しずつずれているため、今でも梅の花を楽しめます。
また、南北朝時代に詠まれた歌から、当時からこの土地に
梅が咲いていたことが分かっています。
明治10年頃からは、果実の収穫のため梅の栽培が始まり、
大正12年には、東宮殿下(昭和天皇)のご成婚を記念して5,000本の苗が植えられ、
「賀名生梅林」として知られるようになりました。
初めて「賀名生」という地名を知った方の中には、
読み方がすぐに分からない方も多いのではないでしょうか。
「賀名生」は、南北朝時代の歴史と深い関係があります。
「正平の一統」をご存知でしょうか。
南北朝時代、北朝の天皇が一時廃位され、
南朝が唯一の朝廷であった時期のことを指します。
この時期、都がおかれていたのが賀名生でした。
南北朝時代、後醍醐天皇が吉野にいた際、
自らが正統の天皇である、と主張したことから
京都(北朝)と吉野(南朝)の2ヶ所に朝廷が現れることになり、
両朝の約60年も続く争いが始まりました。
後醍醐天皇の跡を継いだ後村上天皇は、
南朝の本拠地である吉野山が焼き討ちにあうと、
賀名生に行宮(あんぐう=仮の御所)を定めました。
それから間もなくして、北朝が一時的に南朝に降伏することで、
わずか数か月ですが、南朝が唯一の朝廷となり、
賀名生は都になりました。
もともと、この地域は「あなう」と呼ばれ、
「穴生」「穴太」「阿那宇」等の表記をされていました。
後村上天皇が行宮を吉野山からこの地に移した際に「穴生」と書いたものを、
南朝による統一を願って「叶名生(かなう)」と名付け、
実際に南朝が朝廷となった際は、願いが叶ってめでたいとの思いから
「加名生(かなう)」と字を改めました。
その後、この地の人々が、「加名生」はおそれ多いとの事から
「賀名生」に名を改めたとされています。
明治には読み方を元の地名に近い「あのう」に統一しました。
歴史を辿ると、地域の見え方が奥深くなります。
また、果実の収穫のために植えられた賀名生の梅と、
烏梅(うばい)を作るために植えられた月ヶ瀬の梅。
奈良の梅は、地域によって様々な用途があります。
紅花染めの発色剤である烏梅を知ってもらうための展示を
「観光案内所 繭」で、明日から行います。
(奈良東部の春めぐり 月ヶ瀬の烏梅づくりを訪ねて 展)
5月下旬まで開催いたしますので、こちらへもお気軽にお立ち寄りください。