第二回講座 「つたえる」 「わたしの奈良案内」とは?
『暮しの手帖』にて「今日の買い物」を連載されている岡本仁さん。
そのなかで、奈良を取り上げられた回があります。(79号掲載 「第十八回 奈良へ」)
今回、生活学校「つたえる」の講座で作成する、「わたしの奈良案内」のイメージをより深めるために、
改めて「第十八回 奈良へ」を読み、岡本さんに質問を投げかけてみました。
横断歩道を並んで渡る鹿の後ろ姿が愛らしい写真と、
志賀直哉旧居の隣のカフェ「たかばたけ茶論」のシンと静かな写真から始まる、「奈良へ」。
『暮らしの手帖』79号 P70-71
ページをめくり、まず目に飛び込んでくるタイトルは、「修学旅行をやり直す。」というもの。
以下、(O)=岡本仁さん、(K)=生活学校担当Kのやり取りです。
(K) 「修学旅行をやり直す。」というタイトルが、奈良観光に対して、とても共感を呼ぶ、
端的かつ濃縮されたものだと感じました。このようなタイトルをつけるコツ、というか、
このタイトルをつけるまでの考えの道筋のようなものを、少し教えていただきたいです。
(O) 数年前、大人になってはじめて奈良へ行った時に、迎えにきてもらった人に
「奈良へ来るのは修学旅行以来です」と言ったら、
その人が「奈良に住むわたしたちがいちばんよく聞く言葉です」と、
笑いながら答えたのがとても印象的でした。
それで、自分が修学旅行の時に(高校生でした)
奈良の何を見てまわったんだっけ? と思い返してみたのです。
でも場所は憶えていても、そこで何を感じたのかは
まるで記憶にありませんでした。
それは、奈良に住む人たちに対して失礼なことのように感じました。
だから修学旅行でまわった場所へ行ってみるところからじゃないと
奈良を知ることにならないだろうと考えたのです。
その気持ちをそのままタイトルにしました。
――次のページから出てくるのは、岡本さんの目線で切り取られた写真の数々。
それぞれの写真について、詳細の情報や、コメントも添えられています。
『暮らしの手帖』79号 P72-73
(K) 写真についての質問ですが、
「この角度の写真を使おう」「そしてこういう言葉で説明を加えよう」といったように、
撮影するそのときに、それが決まっていくイメージなのか、
もしくは、印象的な部分をたくさん撮影しておき、それを持ち帰ってひとつの記事に編集するときに、
その記事の軸に合ったものを選んでいくイメージなのか、どちらに近い感じなのでしょうか。
(O) どちらもあるので、どちらに近いかは答えにくいですね。
『暮しの手帖』の場合は、滞在のはじめのうちは
気になるものを手当たり次第に撮っている感じで、
それを毎晩ホテルで見返して、自分の興味の持ち方の道筋みたいなものを
探します。つまり最終的にどのようにまとめるかの大枠を考えるということです。
そこからは、必要な写真がわかってくるので
目的を持って撮っていきます。
とはいえ、やはり事前に意図が強くありすぎると、
偶然に出会う面白さを見逃すことにつながるので、
できるだけ印象に従ったほうが、後で選択の幅が広くとれると思います。
(K) 写真を撮る、言葉を紡ぐ、どちらの工程についてもいえることかもしれませんが、
意識すればするほど、とても意図的になっていくような気がします。
例えば、自分はこういう風に思われたい、自分らしく、人とは違う視点から作ってみたい・・・といったような、
邪念のようなものが、自然な状態を邪魔したりすることがあるように、実体験として感じます。
意識の持ち方で、心掛けていらっしゃることがあれば、教えていただきたいです。
(O)いちばん考えるのは、無意識が偶然に見出す面白さと、意識することで見えるものの面白さのバランスですね。
意識することはとても大事です。意図のない興奮を垂れ流すことを避けるために。
でも意識していることにこだわり過ぎると、逆に見えなくなることが増えるのも真実です。
両者のバランスをうまく取ること。頭の中のどこかにとても冷静な自分が居る状態を常に心掛けます。
――次のページをめくると、それぞれのページごとにタイトルが付けられています。
「ソ連の名残り。」「宇陀へ。」「見た目も楽し 奈良の食。」「ピーナッツとアメリカ。」
このなかで少し異彩を放っているように思えるのが、「ソ連の名残り。」、「ピーナッツとアメリカ。」です。
『暮らしの手帖』79号 P74-75
『暮らしの手帖』79号 P75-76
(K) 「ソ連の名残り。」「ピーナッツとアメリカ。」といった、奈良の記述とは想像しにくい、
でもだからこそ、新しい奈良のイメージに対する好奇心が生まれるようなタイトルについて、質問です。
これらは、純粋に奈良のものを見てそれをそのまま記述する、というものではなく、
岡本さんの既に持っていらっしゃる色んな記憶の引き出しを開けて、
それと奈良のものを結びつけて(結びついて)、生まれてくる記述のように感じました。
それは、実際にその奈良のものに触れた現場で、ふっと思いだし、結びついていくような感じなのでしょうか。
どのような記憶・お考えの道筋で出来上がっていくのか、教えていただけたら嬉しいです。
(O) ぼくは人に何かを説明する時に「知識」としてではなく「体験」として語りたい性格なので、
どうしてもそうなってしまいます。それが正解かどうかはわかりません。
それしかできないと言ったほうが正しいと思います。
どちらかというと、引き出しを開けるというよりも、自然にふっと思い出す感じですね。
その場でということもあるし、翌日の朝のこともあります。
無理矢理に記憶を引っ張り出すことはありません。そもそもぼくは記憶力が悪いです。
――なるほどなるほど。
そして最後に、記事全体についての質問をさせていただきました。
(K) この「奈良へ」連載記事全体について、
訪れた場所すべてについて記事にされているのでしょうか。
もしくは、行ったけど記事にはならなかった部分もあるのか、教えていただきたいです。
(O) 記事に紹介されていない場所はたくさんあります。
いちばん残念だったのは「法隆寺」の許可が出なかったので
掲載できなかったことです。「修学旅行をやり直す」というテーマに
いちばんぴったりな題材でしたし、
実際に法隆寺に行って感じたことは有り余るほどでしたし、
行って良かったと心から思いました。
もちろん想像していたのとは違ったから掲載しないという例もあります。
「このやり取りがワークショップみたいですね」と、丁寧に質問に答えてくださった岡本さん、
どうもありがとうございました!
生活学校「つたえる」は、
「つたえる」の要素である「聞く」「見る」「歩く」といった要素を紐解き、実際に体験しながら、
岡本さんと一緒に、「わたしの奈良案内」をつくる講座です。
相手に伝わる編集とは、いったいどんなものなのか。
参加した後には、新たな視点を持って物事を見つめ、
それを誰かに、自分の言葉できちんと伝えてみたくなるはずです。
講座の詳細は、こちらからご確認くださいませ。
みなさまのご参加をお待ちしております!