鹿の舟のいま

大和の城 「多聞城跡」(たもんじょうあと)

[鹿の舟]から多聞山へ

 

 近鉄奈良駅から東向北町を抜けて北へ向かうと、高さ100メートルほどの
小さな山があります。

山の上にある奈良市立若草中学校の校舎が目印で、見つけやすい史跡です。

かつて、ここには「多聞城」という豪華絢爛な御殿がそびえていました。
今は焼失し、わずかな痕跡を残すのみです。

今回は失われた大和の城の面影を見に、きたまち周辺を歩いてきました。

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きたまちを歩く

 多聞城は、今から460年ほど前の戦国時代、松永久秀(ひさひで)に

よって建てられた城です。


築城がはじまったのは1559(永禄2)年。
日本史で言うと室町時代の末期になります。

[鹿の舟]から、多聞城のある北を目指して出発します。

近鉄奈良駅を過ぎ、東向北商店街を行きまっすぐに進むと、
奈良女子大学に出ます。
もともと奈良奉行所があった土地に建てられたため、大学の敷地は広大。

正門から東側に回ると、赤い屋根の旧鍋屋交番きたまち案内所が姿を現します。
ここはかつて旧奈良警察署の連絡所として親しまれ、今は観光案内所と
して使われています。

周辺は奈良時代から続く古い町なので、マップを手に、周辺の歴史を
調べてみるのもおすすめです。

町並みを見ながらそのまま北へ進みます。

郷愁感あふれる古い町並を眺めながら、多聞城のふもとにある
若草中学校を目指して歩きました。
古民家が数件あり、立派な門構えの邸宅も見られました。

かつて奉行所があったということから、武家屋敷が並んでいたことが
うかがえます。
江戸時代の面影がある町で、足取りも軽く楽しい気分を味わえます。

東側に走るのは京街道(きょうかいどう)。
古代より奈良と山城(京都南部)、京都を結ぶ街道で、
現在も国道369号線として利用されています。

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若草公民館に着いたので足を止めると、館内には研究会の方が制作
した周辺地図や、再現模型などが展示されていました。

若草公民館は、多聞城を知りたい人のための活動の拠点になっています。

今までほとんど知られることのなかった大和の城「多聞城」の歴史を紐解き、
内外にアピールしたのは多聞城研究会の方々です。

公民館を出て北へ進むと佐保川が流れています。
坂を上ると若草中学校はすぐそこに。

目の前の小さな山は「多聞山(たもんやま)」です。

もとは「眉間寺山(みけんじやま)」とよばれた場所で、光明天皇陵、
聖武天皇陵がすぐ西側にあります。

佐保川、京街道のかたわらの小高い山上にあり、東大寺や興福寺、
奈良の街を一望できる場所がこの多聞山なのです。

名だたる寺社仏閣、いにしえから続く街並をここから一望できました。

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松永久秀について

 若草中学校の校門から、坂がけわしくなります。

多聞山は北側の傾斜が険しい崖に、南側がゆるやかになっています。
山の東西を流れる佐保川は、天然の濠(ほり)でした。

この地に築城した松永久秀は「戦国一の大悪人」と評された人物です。
生前に行った「久秀の三悪」が悪名の由来。

将軍の暗殺、主君の暗殺、東大寺の大仏殿を焼いたことが松永久秀の
悪行とされていたのですが、近年の研究では事実ではなかったことが
分かっています。

反対に、この天然の要塞を利用し、京街道の流通を元に経済を発展させた
久秀は優れた人物だったと言えそうです。

また、久秀は築城の名人だったと評価されています。

多聞山の頂に東西約100メートル、南北約100メートルの美麗な高層建築を建て、
奈良の町衆(まちしゅう:一般人)に棟上げを見学させるということまで行った
久秀の城は、金箔障壁画のある茶室や庭園も備えていました。

これまでの城の概念を覆した多聞城は宣教師からも注目され、
ヨーロッパに伝えられるほどでした。

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 かつてこの地を治め、絢爛な城を建て世界を驚かせた人物に思いを
馳せてみてはいかがでしょう。

若草中学校に立ち入ることはできませんが、この地から見える奈良市街の
様子はおだやかです。

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